目を覚ましたエドワードは、不機嫌な声で、
「あんただれ」
と言った。弟に向かって。
「え?」
アルフォンスは当然呆然としてしまう。
エドはぐるぐると腕を回して、痛い、と顔をしかめた。なぜか着たままのコートがばしばしと顔に当たる。
「……僕、アルフォンス、だよ?」
「は? その中にアルが入ってんのか? アルはそんなにでかくねーぞ」
「はいこちら東方司令部――」
「アルフォンスですアルフォンス、エドワード・エルリックの弟のアルフォンスですー! 大佐を、ロイ・マスタング大佐をお願いします!」
「……はあ、少々お待ちください」
アルは混乱していた。受付嬢が不審に思っているのがわからないくらい混乱していた。ぶつ、という音を立てて電話はすぐにつながる。
「もしもし。どうかしたのか」
「たたたたた、た、大佐! 大変です兄さんが兄さんが兄さんが」
「落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられますか!」
ロイは沈黙した。アルははっとなって、ごめんなさい、と言った。
「い、いまから行っても大丈夫ですかそちらに軍医さんはいらっしゃいますか」
「病気か?」
「た、たぶん」
「急を要するのか。車を出すが」
「お願いします!」
アルはここの住所を言った。
「二時間くらいかかるかもしれん」
「はいわかりました、ありがとうございます!」
「どんな状態なんだ?」
「それがえっとよくわからないんですけど、兄さんが僕のこと忘れちゃってるみたいで――!」
「……記憶喪失か?」
「でもアルフォンスのことは覚えてるんです!」
「…………よくわからないんだが」
「僕もよくわかりません! わあ兄さんちょっと待ってどこいくの!」
エドはふらふらと外に出ようとしていた。
「ごめんなさい大佐もう切りますありがとうございましたそれじゃ!」
「おいちょっと待っ」
「さようなら!」
乱暴に受話器をたたきつけて、兄を止めに行く。服の襟元を掴むとエドは迷惑そうに振り返った。
「離せよ鎧」
「兄さん、ってば、勝手に出歩くなって言ったでしょー!」
「だから俺は兄さんじゃないって。あんたみたいにでかい弟持った覚えはない」
「僕はアルフォンスだって言ってるじゃないか!」
「アルはまだ小さいの」
そこでアルはようやく気づいた。
「……兄さん」
「だから違うって」
「いま、何歳」
「は?」
「だからいま何歳」
「はち、だけど」
アルは絶句した。
「てゆかここどこ。リゼンブール、じゃねえよなあ」
窓の外を見ながらそう呟くエドの声にアルは意識を取り戻した。
ええと。こういうのなんて言うんだっけ。退行?
「母さんは?」
胸が痛んだ、気がした。あくまで気がするだけだ。だって自分には痛みを感じる器官などない。
アルは少しだけ悩んだ。伝えるべきか、伝えないべきか。
「母さんは――」
「お前はなんなの。誘拐犯?」
さすがにかちんときた。自分はあんたの弟で母さんの錬成に失敗して体が消えてあんたが鎧に自分の魂を錬成してこんな姿になりました、言おうとしたが慌てて踏みとどまる。そんなこと言ってはいけない。わかっている。
「ええとね兄さん。一回部屋戻ろう」
アルはエドの腕を掴み、ゆっくりと階段を上った。
「なにこれ」
「いま兄さんは十五歳。そして僕は十四歳。まあいろいろあって鎧なんか着ちゃってたりするけど、正真正銘あなたの弟」
「これ俺?」
「うん」
エドは洗面器の上に身を乗り出してまじまじと自分の顔を見ていた。ひどく驚いている様子だ。まあ、無理もないだろう。
「……背ぇ伸びてる……!」
嬉しそうである。アルは苦笑した。兄さん、こんなころから身長コンプレックス。
「……信じてくれた?」
「うん、まあ。誘拐犯とか言っちゃってごめんな」
「大丈夫。慣れてないこともない」
洗面器からぴょん、と腕をついて飛び降りる。かしゃんと硬質な音。アルにとってその音は慣れっこだったが、いまのエドにとってはそうでないらしい。いぶかしげに眉根をよせている。
「兄さん、手袋とってごらん。あとズボンの裾上げてみて」
エドはきょとんとして、自分の義手義足を見ていた。
「……なにこれ」
「義手だよ。色々あってこうなった」
「色々ってなんだよ」
アルにはそれを言っていいのかはたまた駄目なのか判断がつかなかった。
ので、ごまかすことにした。
「僕はよくしらないんだ」
「……そうか」
エドは落胆したようだった。アルは胸の中で、ごめん兄さん、と呟いた。
「お前はなんで鎧なの?」
「それは言えない」
「…………ふうん」
エドは鋼の指を開いたり閉じたりしながら、もう一つ問うた。
「お前と俺、なんでここにいるの?」
「旅してるんだ」
「なんで?」
「見聞を広めるために?」
思わず疑問調になってしまった。アルは内心はらはらしていたが、エドは特につっこまなかった。納得したように頷いて、
「よく母さんが許したな。あの人寂しがりだからこういうの反対しなかった?」
無邪気な笑顔でそう言った。
気づいてはいた。
もし兄さんが本当に記憶の退行を起こしているならば、母さんの死を覚えていない。
気づいてはいたが、わかってはいなかった。
「……アル?」
黙り込んでしまったアルを見て、エドが探るように名前を呼んだ。
「もうすぐしたら軍の人がくるから。そしたらその人について行って」
「アル?」
「言い忘れてたけどね、兄さん国家錬金術師なんだ。軍には顔が利くから、しばらくの間そこでお世話してもらおう」
「アル、お前は?」
「僕は研究しなくちゃいけないことがいっぱいあるんだ。だからね兄さん、ちょっといろんなところ見てくる。少ししたら戻ってくるから、それまでに兄さんはゆっくり自分のこと思い出してて」
「……俺をおいてくの?」
「まさか。そんなことしないよ兄弟じゃない。たった二人の。でもね、僕にはやらなきゃいけないことがたくさんあるんだ。だから兄さん、ちょっと待ってて。もう大きいんだから何でも一人でできるよね」
その突き放すかのような口調にエドは呆然としていたが、もう大きいんだから云々の挑発にエドは乗ってしまった。乗ってしまったのだ。
「わかった」
睨み付けるようにそう言うと、アルは悲しそうな目をした気がした。でもエドにはよくわからなかった。いまのエドにとって鎧の弟は、普段見知った金髪の優しそうなあの子とかけ離れていたから。
アルは簡単に状況説明をした。これから来る人はマスタング大佐の部下。たぶんジャン・ハボックあたり。その人が来たらすみやかについて行くこと。余計なことは言わないし困らせない。ポケットの中の銀時計は身分証明書みたいなものだから絶対になくしちゃいけない。あ、マスタング大佐っていうのは兄さんの後見人で、普段すごくお世話になってるからお礼言っとくように。兄さん大佐のこと好きなくせに意地ばっか張ってるんだからたまには素直になりなさい。大佐も国家錬金術師だからそれ関連で困ったことがあったら相談するといいよ。
「じゃあ僕は先に行ってる」
「……うん」
「気をつけて。軍の人以外についてっちゃ駄目だよ」
「わかってる」
アルは些か乱暴にドアを閉めた。
「……兄さんのバーカ」
所謂兄弟喧嘩というやつである。多少一方的ではあったが。
エドはしばらく機械鎧をいじっていた。硬質なそれ。自分はなんでこんなことになったんだろう、考えるが思い当たるわけもなく。
母親は自分たちがいなくて寂しくないだろうか、そればかりが気がかりだった。彼女はいま家にひとりきりだ。いや、ウィンリィたちと一緒にいるのだろうか。彼女たちは仲が良かった。
もう一度、鏡に自分を映してみる。髪が伸びた。今の俺は床屋が嫌いらしい。
「ふむ」
タイムスリップしてきたみたいだ。今の自分はたしか十五歳だとアルは言っていた。だったらそれらしいようにきちんと振る舞わないと。決してはしゃいでやわらかいベッドの上で飛び跳ねたり、ところかまわず落書きをしたり、牛乳を残したりしてはいけない。
軍の人がきたらまず挨拶をしよう。軍人は好きではないどころかはっきり言って大っ嫌いだが、これからお世話になる人だ。きちんと礼儀正しく挨拶しよう。それに自分もどこでどう間違ったのか国家錬金術師らしい。十五歳で軍の狗。どういう人生送ってきたんだ俺。
窓の外をぼんやりしながら見ていると、軍用車がゆっくりと宿の前に止まった。若い黒髪の人が降りてくる。
「あの人がハボックさん」
違う。が、誤りを訂正してくれる弟はもう既に出て行った後である。
エドはまとめた荷物をしっかりと手に持って、忘れ物はないかぐるっと部屋を見回すと、安心したように頷きドアを開けた。
階段の途中で推定ジャン・ハボックと出会う。
「やあ」
そう親しげに声をかけられて、なんて反応を返せばいいのか迷ったエドは、
「初めましてエドワード・エルリックです、これからお世話になりますよろしくお願いします」
とりあえず自己紹介をしてみた。
推定ハボックは面白いものでも見るかのような目でエドを見、それから吹き出した。
なにこいつ、と思ったがエドは決して怒ったりしない。何せ自分はもう十五歳なのだから。
エドがじっと推定ハボックを見つめていると、彼は未だ笑いながら、
「すまない」
と言った。単純なエドはそれだけで推定ハボックの好感度が上がった。この人は子供にも謝ってくれる人。軍人じゃないみたいだ。
彼はすい、と右手を出した。
「ロイ・マスタングだ。階級は大佐、それと焔の錬金術師」
エドはまず、この人の名前を呼ばなくてよかった、と思った。それから先程の弟の台詞がよみがえる。
(マスタング大佐っていうのは兄さんの後見人で普段すごくお世話になってるからお礼言っとくように)
エドはロイの手を取り、それから、
「俺の後見人、やってくださってるんですよね。ありがとうございます」
ロイはきょとんとして言った。
「きみに礼を言われる日がくるとは」
顔から火が出る思いだった。どんな無礼者だったんだ十五歳の俺。
赤くなっているエドに気づいたのか、ロイは意地の悪い笑みを浮かべながら、もう一つ言った。
「それにね、きみに敬語を使われるのは気味が悪い。普通にしてくれてかまわないよ」
エドは顔を手で覆い、溜息をつき、真っ赤な顔で、すみませんと呟いた。
バーカバーカ俺のバーカ。
「弟は」
「先に行ってるって。研究することがあるからと」
「そうか」
アルはどこまでエドに言っているのだろうか。ロイは少し考えた。エドは不安げにロイを見つめる。
「どうした?」
「……いえ。何でもありません」
「不安なんだね。そりゃそうだ。きみは何を忘れてしまったんだい?」
「忘れたというか。俺の中で俺は、八歳なんです」
「……退行か」
アルが電話で言っていた意味がようやくわかる。アルのことは覚えているが今のアルは知らない。
「たいこう?」
「いや何でもない。そうか八歳。八歳ね。にしちゃあ随分大人っぽい」
「だって今の俺は十五じゃないですか。そういう風に振る舞わないと」
ロイは目をぱちぱちさせた。
「……普段のきみに聞かせてやりたい」
エドは再び自分を罵った。
車に乗るのは初めてで、どきどきした。後ろの席に置いてもらって、自分もそこに乗った。
「前に乗ればいいのに」
とロイは言ったが、エドは首を振った。この人と一緒だとどうも緊張する。目上の人だからだろう。
乗り心地は快適だった。風が頬を撫で、景色はめまぐるしく変わり、楽しかったし気持ちよかった。ロイは一言二言エドに語りかけ、エドは短い返事を返した。
ロイは自分の扱いに困っているようだった。普段のようにしてくれていいよ、彼は何度かそう言った。エドにはどうすることもできなかった。普段の自分など知らないのだから。
勇気を出して聞いてみた。
「普段の俺ってどんなのでしたか」
「うーん、そうだね」
ハンドルを器用に切りながらロイは言う。
「すごく小生意気だった。私に敬語なんか使ったためしがなくて、でもきちんとけじめはついていたよ。感情が豊かですぐに笑ったり怒ったりした。でも泣いたところは一度も見たことがない。強い子だった」
「ふうん」
前半部分で恥ずかしくなり、後半部分では違った意味で恥ずかしくなった。よくやった自分。この言い方からしてとりあえずこの人には好かれているようだ。
「、伏せろ!」
エドは反応できなかった。ぱあん、とどこからかすごい音がして、それから耳が熱くなった。エドは何が起こっているのかわからなかったが、ああ鉄砲だと、それだけは理解した。
ロイがアクセルを踏み込む。エドはがたがたとうるさい鞄を体で押さえつけた。風が強い。木がざあっと揺れる。そしてそのとき、エドは見た。ロイも見たのだろう、背中が強張り、姿勢を低くしてまたスピードを上げる。だがもう既に狙われている、間に合わない、と彼は思った。気づけなかった。当たらないといい。お願いだ、今は子供が乗っている。
銃を構える男を見て、エドは危ない、とだけ思った。気がついたら両手を合わせていて、記号やら数式やらが頭の中を踊った。錬成反応の光が生まれ、そこには壁ができていた。ぱん、と乾いた音はしたが、弾が飛んでくる様子はない。
ロイは嬉しそうに舌打ちした。
「錬金術を覚えているのか!」
「いやなんかよくわかんないけどなんとなくやってみたら」
「この天才め羨ましい!」
ロイはくるりと振り向いて笑った。
「よくやった!」
「ま、前! 前見て頼むから!」
車は不安定に揺れ、エドはものすごくはらはらした。ロイは上機嫌にハンドルを切り、スピードはそのままで郊外を駆け抜けた。
「最近は過激派が増えてきていてね、きみも危ないからあまり一人で出歩くんじゃないよ」
「はあ」
エドは曖昧に返事を返した。錬成陣なしの錬金術を使ったのはいまの彼にとっては初めてで、自分でも驚いていたのだ。
(やる気になればなんでもできる……)
真理を見た記憶は残っていない。だが、エドはその内容を噛み砕き理解していた。膨大な数式を一瞬で頭の中に浮かべ、循環を作り出す方法を彼は知っていた。
司令部につくとエドは真っ先に医者に診せられた。朝起きたら突然十五になっていた、と言うと医者はすぐに診断を下した。
「退行です」
ロイは頷いた。退行というその言葉の意味自体はよくわからなかったが、とりあえず今の自分みたいな突然タイムスリップ状態のことをそう言うんだろうとエドは大雑把に検討をつけた。当たっているといえば当たっていると言えなくもない。
軍医とロイはエドにはよくわからない難しいことを話し合っていた。エドは不安そうにロイを見上げて、それに気づいたロイは大丈夫だよと笑ってみせた。
「薬とかそういうものはありません。こればっかりは思い出すのを待つしか」
軍医は事務的にそう言った。ロイはそうかと呟き、エドは納得した。あと七年先の世界でも心をどうこうする薬はできていないらしい。
ありがとう、とロイは軍医に頭を下げた。慌ててエドもそれに倣う。
医務室を出て、ロイはエドに問うた。
「これからきみはどうする。どこか止まるあてはあるかい?」
「財布、アルが持ってっちゃった……」
「ふむ。困ったな、宿舎も今日はいっぱいだ」
それじゃあ今日は外で野宿だろうか、そう思ってエドがびくびくしていると。
「そうだ!」
ロイはぱっと顔を上げた。そしてそれからまた下を向き、エドを見る。
「私の家へおいで。あそこなら多分それなりに快適だ」
「わ、悪いですそれは」
「変な遠慮するのはやめなさい。それに敬語もいらない」
「でも」
「上司命令だ。目上の人の言うことは聞くものだよ」
うまい反論が見つからなくてエドは黙った。ロイは笑った。
「きみは本が好きだろう。書庫の鍵を渡しておくから、そこで時間を潰しておいで。腹が減ったら食堂へ行くといい、ああお金を渡しておくよ」
ロイは三枚の紙幣をエドに握らせた。
「……多いです」
「もう一度言うよ、敬語はいらない。素直に受け取って起きなさい、必要になるかもしれないから」
この大人は丸め込むのがうまい、とエドは思った。ついうっかり素直に頷いてしまう。
「仕事が終わったら迎えに来るから、それまで待っているように。書庫はここをまっすぐ行って左の突き当たり。行けるね?」
「……うん」
「よし」
ロイはエドに背を向け、ひらひらと手を振り行ってしまう。エドはぼんやりとそれを見送った。
「変な人」
小さく呟いた。変な人だ。大人なのに自分に敬語を使わなくていいだなんて。軍人なのに。大人なのに。
エドはゆっくりと書庫を目指した。かしゃんかしゃんと鋼の足が音を立てた。
一般書庫は自分でも読んだことがあるような内容の本が並んでいたが、そこからドア一枚挟んだ、鍵を使わないと行けない第二書庫は異世界だった。
賢者の石云々、という題名の本の多いこと多いこと。
賢者の石の名前くらい聞いたことがあったので、興味半分でその内の一冊を手に取ってみる。どうせお伽噺みたいな内容だろうと思っていると、全然違った。事細かく色々なことが書いてある。効能、それにまつわる伝記、危険性など。科学的な分野からみる嘘みたいなでも信憑性のある話。エドはたちまち夢中になった。だがどの本を読んでもその作り方については載っていなかった。エドは賢者の石を石油のようなものだと理解した。人間が作り出すことが不可能なもの。代償は時間と自然環境。
賢者の石について興味をなくすと、今度は手当たり次第、目についたそれ以外の本を片っ端から読破していく。ここの蔵書はすごい。俺のうちとは大違い。
知識の吸収は好きだった。エドはその内容をゆっくりと頭の中に詰め込んでいく。
そういえば腹減った、そう思って顔を上げると、なにやら赤い。日が沈んでいた。夕焼けの赤い光が書庫の中まで入り込んできたようだ。エドは慌ててカーテンを閉めた。貴重な本が日焼けしてしまう。
エドは食欲と読書欲を天秤にかけた。残りのページはあと四分の一程度。よし読める。まだ読める。
後残り十数ページ、いよいよ結論も佳境に入り残すところ作者のまとめ感想、そう言ったところでロイの声がした。
「鋼の」
はがねの?
エドは顔を上げた。気がつけばいつのまにか、ロイは自分の目の前に座っていた。
「鋼のって俺のこと?」
言ってからしまった、と思った。敬語を忘れていた。目上の人は敬いなさい、幼い頃何度も母に言われた言葉。しかしロイは満足そうに笑ったので、エドはほっとしてこれでいいんだと思った。そういえば先程彼は言っていたではないか、敬語はいらないと。
「そうだ。きみの銘は鋼、鋼の錬金術師」
「仕事終わったの?」
「ああ。待たせてしまったね。すまない」
「楽しかったからいいよべつに。お疲れ様」
「……きみに労いの言葉をかけられる日がくるとは」
エドはやはり十五の自分に疑問を抱きつつポケットにしまっていた紙幣を出した。
「使わなかったから返す」
ロイはあきれた風にエドを見た。
「……昼ご飯はどうしたんだい」
「忘れてた」
「まったくきみは……」
小さいころからこうだったのか、ロイは苦笑した。
「今の俺もそうなの?」
「そうだよ。ひどいときは栄養失調で倒れる」
「……俺はそこまでじゃないよ」
「それはよかった」
だがロイは紙幣を受け取ろうとしない。
「無一文じゃ困るだろう」
「でも」
「私に年上面をさせてくれ」
また何も言えなくなる。本当にもう、この人は。
エドはぺらぺらとページをめくっていき、別段重要なことは書いていないと悟ると本を急いで棚に戻した。急いでロイのところへ戻って言う。
「帰ろ?」
ロイは驚いたような顔をしたが、すぐに照れくさそうな笑顔になり、ああ、と嬉しそうに言った。
ロイは意外にも料理上手だった。キッチンに行くとコップに牛乳が注がれていたので恐々とそれを見つめていると、なんとシチューを作ってくれていたのだった。
「もう少しかかるからね、先に風呂に入っておいで。ああちょっと待ってて」
すたすたとキッチンを出て行き、そしてすぐに戻ってくる。手にはバスタオルとパジャマ。
「ちょっと大きいかもしれないが我慢してくれ」
エドは頷いた。八歳の自分はこのサイズを着ることはまず不可能だろうが、今ならどうにかなるかもしれない。裾を折りまくればなんとか。
案の定だぼだぼだった。鏡に映る自分は小さい。
「うー」
だが仕方がない。裾を何度か折る。まだ多少アレだが先程より幾分かマシになった。
髪から雫が垂れている。タオルでそれを乱暴に拭い、脱いだものを持って、脱衣所を出た。
キッチンまで行く。
どうしようこれ。目線の先には着ていた衣服。あの人に聞かないと。
エドはロイの背中を見ながら悩んだ。ロイはエドに気づいていない。にんじんを刻んでいる。
なんて声をかけよう。
「……ロイさん」
ロイはかしゃん、と包丁を落とした。
ゆっくりと振り向く。
「な、ななな、なんだねエドワードさん」
どうやら気が動転しているようだった。ぎこちない様子で包丁を拾い、ぎこちない様子で笑顔をつくる。
「脱いだもの。どうすればいい?」
「ああ、洗濯してくれてかまわないよ」
「……どうも」
エドはくるりと方向転換して、再び脱衣所へ向かった。
ロイはというと。
「なに今の……!」
頬を染めている。
「いい……、すごくいい……!」
変態である。
彼はものすごい勢いでにんじんを刻み始めた。既に半月切りではなくなってしまっている。
エドはやたら細かいにんじんに首を傾げつつ、シチューをおいしくいただいていた。
「ロイさん料理うまいんだなー!」
すっかり餌付けされてしまったエドは、普段ならば絶対に見せない無垢な笑顔を全開にしていた。ロイも自分の名前の呼び方に絆されたのか、人の良さそうな笑みを常に浮かべていた。
食事はたいへん円満に進んでいた。
エドはシチューのスープを飲み干すと、ごちそうさま、と言って洗い物を手伝った。ロイが皿を洗いエドがそれを受け取って拭く。ロイが始終くすぐったそうにしていたので面白かった。
「……母さんに会いたいなあ」
最中、ぽつりと呟くと、ロイがこちらを探るように見てきた。エドは何、と問いかけるが、いや、と濁った返事が返ってくるだけだった。そのときは、別段不思議に思わなかった。十五歳の自分が母親に会いたいと言い出したのが奇妙なのだろうと思っていた。もう大人だもんな俺。そんなこと言って変に見られるのは仕方ないか。
おやすみ、と言ってロイはドアを閉めた。エドはおやすみなさいと返事を返したが、ロイに聞こえたかどうかはわからなかった。枕元でランプが弱々しく燃えている。一人で眠るのは初めてだ。いつも隣に母さんかアルがいた。眠れるかなあ、と心配になって、その度に自分に言い聞かせた。もう十五歳なんだから大丈夫。
駄目だった。やっぱり眠れない。エドはがばりと起きあがった。ロイのところへ行こう。起きていたら一緒に眠ってもらおう。寝ていたら、そのときは水でも飲んで帰ってこよう。気分転換するだけでも少しは違うかもしれない。
音を立てないように静かにノブを回してドアを開ける。廊下は寒々としていて暗くて怖かった。エドはゆっくりと歩いていく。向かう先はロイの部屋、もし明かりが消えていたらキッチン。
彼の部屋から漏れている明かりに気づくとエドは安堵した。よかったまだ起きてる。
ノックしようとすると電話のベルが鳴ったので、エドはびっくりして手を引いてしまった。
「はいマスタングです」
掠れた声がドアの向こう側から聞こえて、エドは無意味にどきどきする。
「――アルフォンス? うん、エドワードはいるよ」
もしかして、自分に電話だろうか。エドはロイに呼ばれるのを待っていた。
「……ああ、そうだね。じゃあいいか」
だが一向に呼ばれる気配はない。いいかじゃねえよ。代われよ。
エドが音が漏れないように溜息をついて、部屋から離れようとすると、
「きみに聞きたいことがある」
聞いたことがない、彼の真剣な声が耳についた。だから思わず足を止めた。
「鋼のはどこまで知っている?」
鋼の。俺のこと。
「きみたちの母君が亡くなったのは鋼のが何歳の時だ?」
え?
頭の中が真っ白になる。
「……そうか、じゃああれはまだ知らないんだな」
だが、すぐに理解した。
合点がいく。アルに母さんのことを話した途端アルの機嫌が悪くなったことも、先程のロイの複雑なあの表情のわけも。
エドは静かに、音を立てないように、ロイの部屋の前から離れた。
エドは考えていた。母さんは死んでる。
水、炭素、アンモニア、石灰、リン、塩分、硝石、硫黄、フッ素、鉄、ケイ素、元素十五種類、それから魂の情報。
作れるだろうか。
水炭素アンモニア石灰リン塩分硝石硫黄フッ素鉄ケイ素元素十五種類魂の情報。それぞれ35リットル20キロ4リットル1.5キロ800グラム250グラム100グラム80グラム7.5グラム5グラム3グラム、それから少量、あとは俺の血。
枕元には、ロイからもらった紙幣三枚。
作れるだろうか。作れるだろうか。
エドはその晩寝なかった。幾度も幾度も人体錬成の理論を組み立てていた。
ロイが起こしにきたとき、エドは寝たふりをしていた。ロイはエドに近づくと、頭を撫で、行ってくる、と呟いた。
なぜだか胸が痛んだ。この人をひどく裏切っているような気がしたのだ。
ロイが出て行っておよそ一時間後、エドは乾いていた服を着、紙幣三枚を持って市場へ行った。材料はとても安く買えた。あとは理論を完璧にするだけ。
構築式を書いていく。ロイの家の裏の空き地。土が何度も風に舞い、その度にエドは溜息をついて書き直した。
「あーもう」
陣なしの錬成をやってしまおうか。
しかしそれだと、完璧に式を思い浮かべることができるかどうか自信がない。こっちの方が確実だ。
母さんは死んでいるらしい。あの優しい人は、もうこの世にはいないらしい。自分が何歳のとき、母は死んだのだろうか。自分は母の死に目に会えたのだろうか。旅なんか出なければよかった。ずっと一緒にいたかった。
理不尽だ。あの人が死ぬなんて考えられない。あの人は生きるべきで、俺のためにも、アルのためにも。母さん自身のためにも。母さんが俺を産んでくれたんだから、今度は俺が母さんを産むんだ。
すらすらと考えがまとまる。式が出来ていく。まるでこの式を以前から知っていたかのように、それを暗唱しているかのように、エドは地面に式を書く。書き上げていく。
材料を慈しむように撫でる。これが母さんになる。人間の素。母さんのからだ。そっと陣の上に置く。風が吹かないうちにさあはやく。
指を噛み切って血を出す。赤が地面に落ちる。水に溶ける。
エドはじっと陣を見つめた。
かあさん。
会いたかった。もう会えないなんてごめんだと思った。そんなのは絶対に嫌だった。
循環をつくる。陣の上に手を、置く。
材料が炎上した。
「うわ!?」
驚いて飛び上がって離れる。錬成反応の光は宙に上がってすぐに消えた。
背後から冷たい声。
「なにをしている」
冷たい声だった。聞いたことがないような声をあの人は出した。体が竦む。怖い。
彼はもう一度その言葉を繰り返した。冷たい声で、なにをしている、と。
「……母さんを」
ロイはすべてを察したらしい。厳しい表情で、
「それは許されることではないよ」
「どうして」
「倫理的に。あと、成功例がない。とても危険だ」
エドにはよくわからない言葉をロイは使った。エドはそれがとても卑怯だと感じたし、大人に対する失望を思い出した。彼らはいつだってそうだ。聞かれたくないことは黙りを決め込んだりむずかしい言葉でごまかしたりする。
「成功するかもしれないじゃないか」
「しない」
「どうして!」
ロイはぱちん、と指を鳴らした。ぼん、という間抜けな音の後、ざあっと風が吹いて火が消える。水蒸気爆発。
嫌なにおいと消し炭になった母さんがいた。エドは土にこびりついた焦げ跡を、上がる水蒸気を、見ていた。母さんはこの人に殺されたと、そう思った。
「きみは人体錬成に失敗している。きみの義手と義足はそのせいだ」
「かえして」
「弟は全身がない。きみは弟の魂を鎧に定着させた」
「かえしてよ、母さんをかえして」
「聞け」
「かえしてってば――」
「黙れ!」
怒鳴られた途端、なにかが頭の中に浮かんだ。それは映像だった。突き出した肋骨、腕が変な方向に折れ曲がり、足も同様、顔は崩れ、口から血を吐き、
「やめ、」
そしてその目はじっと自分を見ていた。見つめていた。
「いやだ、やだやだやだやだ見るな、嫌だやめろ、お願いだから、頼むから見ないでよ、ねえやめて、こないで、やだよやめて見ないで頼むから!」
手が伸びる。その視線は自分から離れない。口から垂れている血がいやに目立つ。彼女の肌が白いのだ。不自然なほどに白すぎるのだ。細い指は自分を指さし、その瞳は自分を捕らえ、完成されていない顔を苦痛にゆがめ、それから叫ぶ。悲鳴。腹の裂け目から血が溢れ、彼女はのたうち回る。それでも自分から目は離さない。
しばらくすると、息絶えた。死んだ。
「うそ」
俺人殺しだ母さんを母さんを母さんを殺したこの手でこの腕でちゃんとやったのに完璧だったはずなのに母さんを、母さんを、母さんを、
ぱあん、と小気味よい音が響いた。頬がじんじんして、叩かれたのだとすぐにわかった。
「しっかりしたまえ」
「……おれ、母さんを、」
ロイはすたすたと陣のそばまで行き、足でそれを掻き消した。
「私はなにも知らない。きみに語れることはなにもない」
彼は懺悔を聞いてくれなかった。当然のことだろうと思った。エドは俯いて地面を見た。土と材料が混ざり合っていた。
軽蔑されたと、そう思った。
ロイはエドの腕を引っ張って家に連れ帰った。
「もう二度とあんなことするんじゃないよ」
「…………うん」
ロイは上着を脱ぎ、ワイシャツのボタンを外した。部屋を出て行く。自分の部屋で受話器を取り、電話をかける。短縮一番。司令部だ。
「はい東方司令部です」
「マスタングだ」
「はい。誰に取り次ぎますか? あ、中尉が忘れ物取りに行くのに何時間かかってるんだって怒ってましたよ」
「まだ一時間も経っていない」
「はやく戻ってきてくださいねー」
「早退する」
「え?」
「確かに伝えたぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください大佐お仕事はまだ」
「後は頼んだ」
「なんですかそれ! あ、中尉ちょっと大佐が――」
がしゃん。
後が怖いが致し方ない。いまはそれどころじゃない。先程のあれはどうしようかと思った。濁った瞳、ふるえる体。おそらくあのときのフラッシュバックを起こしていたのだろう、あれは目の前の自分を見ていなかった。正気に戻ったあと、母さんをと、そう言っていた。
昨日の電話を聞かれていたのだと思う。まずいことになった。もっと用心しておくべきだった。母親の死に彼が気づけば、こうなることはわかっていた。彼は一度それをやっているのだから。彼がすべてを思い出すまで、なんとしてでも隠しておくべきだったのだ。彼の手が届く範囲の場所で口に出してはいけなかった。聞かれる危険性のある場所で口に出してはいけなかった。
「あーもう子供は苦手なのに」
とくにいまのあれは鋼のではないのだ。あれはもっと小生意気でにくらしくてずるがしこくて、間違ってもあんな無邪気な笑い方などするはずがない。あれはロイさんなんて呼ばない。不機嫌そうに時々悪戯っぽく、階級で自分を呼ぶのだ。大佐、と。
がしがしと頭を掻き、うう、と唸ってみた。だが状況は変わらない。
ロイはドアを睨み付けた。これから私はなにをすればいい。
エドはぺたんとテーブルに伏せ、涙をこらえていた。母さん。
確かにあれは自分がやったことだという自信があった。体が覚えている。焦燥感と恐怖感、絶望感、喪失感。すべて。自分は誰に謝ればいいのだろう。母さん? 許してくれるはずがない。神様? そんなものはいないのに。
ロイに怒鳴られたとき、なにかを思い出した。彼は前にも自分を叱った。いつのことだったか。
動かない手足、車椅子、突然の来訪者。書類不備。喋れない自分。ロイ。鎧のアル。墓。燃える家、銀時計、狗。狗? ああ、軍の狗。
自分は何を決めた。軍の狗になること? ちがう。つぐなうこと。戻ること。
――何に?
生身のからだに。弟を。アルを。
なにか、忘れている気がする。それ以外にももっと。記憶がない。足りない。もどかしい。
ドアが開いた。
ロイがタオルを持って入ってくる。隣の椅子に腰掛けて、す、と手を伸ばしてエドの頬に触れる。
「汚れてしまったから」
お湯に浸されていたそれはあたたかくて気持ちよかった。ロイはひたすら無表情でエドの顔についた灰を拭っていく。
おれが好きなのはだれ。
ふとそう思った。エドは不思議な気持ちでこの人を眺めた。
俺をここに連れてきてくれた人は誰。忠誠しようと思ったのは誰。信じようと思ったのは誰。
胸の奥であたたかい何かが生まれる。頭の中で色々な音がする。からだが変にあつい。俺が憧れてたのは誰、目指してたのは誰、助けてくれたのは誰。
この人だ。ロイだ。ロイ・マスタングだ。
「俺のこと嫌い?」
「嫌いではないね」
「じゃあ好き?」
「好きでもないね」
「あきれた?」
「ああ」
「嫌いになった?」
「いいや」
なら大丈夫だ、とエドは思った。なにが大丈夫なのか、後から思い返しても全然わからなかったけれど。
「だって俺さ、錬金術師じゃん。いざとなったらやっぱりやろうと思うじゃん」
ロイは少し沈黙してから、ああ、と言った。その数秒の沈黙の間にロイが何を考えていたのか、エドはまだ知らなくていい。
「俺はさ、ただ、もう一度会いたくて、」
しばらく待ってみてもロイは相槌をうってくれなかった。ただタオルでエドの顔を拭いていく。もうほとんど灰など残っていないというのに、病的なほどやさしく、エドの顔を拭いていく。エドは少しくすぐったくて笑った。
「わらってほしくて。でもさ、そういうのも駄目なんだよな。ほんとはどっかでわかってたんだ。でも」
会いたかった。
最後は言葉にならなかった。
ロイは相変わらず無表情のまま、エドの背中に手をやり撫でた。それでもう限界だった。
「ごめん……」
誰に謝ったのかは言った本人のエドでさえわからなかった。母親かもしれないし、弟かもしれないし、ロイにかもしれなかった。なくした自分の腕と足にだったかもしれないし、自分自身にだったかもしれない。あるいはそのすべて。
「たいさ、」
まだ所々記憶に穴はあったが、目の前のこの人を何と呼べばいいのか、そのくらいは思い出していた。ロイは喋るなとでも言うように、くちびるにキスを落とした。エドはそれがまるで自然なことであるかのようにそのくちづけを受け止め、泣いた。
「全然大丈夫じゃねえ」
一人になった後、エドはちいさく呟いた。
さっきのは何だ。あの野郎俺になにしやがった。
いやいやそんなことより当面の問題は、アルとどうやって合流するか、である。
エドはぶつぶつ唱えてみた。
「ぜんぶ大丈夫すべてうまくいく、アルとすぐに合流できるしアレは記憶喪失起こしてすべて忘れる、だから大丈夫俺は大丈夫」
言霊というやつを信じてみた。
くちびるの熱を思い出す。
「……ぜんぜん大丈夫じゃねえ」