「あ」
「きゃぁっ」
二人の声を掻き消す勢いで後ろの金魚鉢が倒れた。
金魚屋をやっていた母の形見だけあって数も多く頑丈にできていたはずの水槽も、金魚が蓋部分に手を引っ掛けたらその拍子にひっくり返ってもおかしくない。
ってか、そうなって当たり前だ。
地震対策などしていない。
俺は慌てて起こしたが水は半分に減っていた。
「やばい。まじやべえって。水!」
言うだけで俺は思わず手元の雑誌を傍のティッシュて拭く。
先ほど買ったばかりでまだほとんど読んでいない雑誌をお陀仏させてたまるものか。
それを見ながらも金魚はどこから持ってきたのか金魚をタモで掬いあげている。
「カルキ抜きしたのなんてないわよっ!」
「んなこと言ったって干からびて死んだら意味ねえだろうが!水道水でもいんじゃね?」
金魚はえら呼吸だ。
水にいれなければ死んじまう。
頭にはそれしか浮かばなかった。
「それだけは駄目ってお母さん言ってたじゃない!」
金魚が悲痛な顔をしたがどうしようもない。
「そういうこと言ってる場合じゃねえよ!あーあーソファも床も。拭く物持ってこいよ」
「分かったわ。救命は水補給して!」
雑誌を拭き終わって急いでリビングを出て外に行く。
雨を気にすることもなくリビングの窓を開け、菜園用のホースを水槽に突っ込み取っ手を回した。
いきおいよく水が流れ込むのを確認してからまたリビングに戻る。
金魚が床を拭きつつまだ金魚を丁寧に掬っていた。
掬うだけでタモに金魚が大量発生している。
気持ち悪ぃとか思ってしまったのは気づかなかったことにしてもだ。
「早く金魚入れろよっ死んじまうだろ!?」
早く水に入れてやらねえとまじで死んじまう。
「分かってるわよっ!けど、本当にいいのかしら」
不安な表情をされても、他にすることがないんだから仕方ない。
「金魚を水以外でどうやって救えってんだよ」
「そ、そうよね。えら呼吸も大変ね」
意見が一致し、結局金魚と俺は金魚を手早く水槽に入れると、悲惨な状態になっているソファと床の処理にかかった。
「金魚のせいだからな」
「そうね。認めるわ。だけど、水道水がやっぱり致命的だったんじゃないかしら。ほら、うちの金魚、お母さんが私たちと同じくらい愛情かけて育てていたから、水道水に抵抗がなかったのよ」
そういう金魚の横顔は切なげだった。
金魚なんてしぶとい生き物、愛情うんぬんで変わるかどうかは知らないが、その表情を見て思わず頷いてしまう。
「そうだな」
俺たちは結局、あの二日後に金魚を全滅させてしまった。
そのままにしておけば、勝手にカルキ抜き出来ているだろうと鷹をくくったからだ。
わざわざペットショップに行ってカルキ抜きを買って来るなどということはしなかった。
梅雨があけて晴れ渡る空の下では、五月蝿く蝉が鳴いている。
その鳴声さえも俺たちの遠いところで切なげに鳴いている気がした。
ずっと一緒だった金魚の亡骸を持ち上げて土に埋める作業は辛いものがある。
「母さんの形見、全滅させちまった」
「ええ、お父さんの遺言も、守れなかったわ」
『母さんの形見の金魚は、お前らの名にかけて、寿命尽きるまで守れ』
頭の中に父の声が響く。
事故に遭ってから、暫く意識があった父の最初で最後の言葉だった。
父は母を愛し、母は金魚と父と俺たちを愛していた。
きっと、俺たちはこんな性格だから逞しく好き勝手に生きれるが、放っておいたら死んでしまう母の大切な金魚のことを、父は心配したんだろう。
それは母への最後の愛情でもあったのかもしれない。
それから、俺たちへの。
悪い、父さん。
服の端を握り締め、俯く。
俺には何も出来なかった。
知識も足らず、お釜の撃退も出来ず。
あの時面倒臭がらないで蹴っておけばよかった。
そうすれば水槽が傾くこともなかったし、金魚も生きていたのに。
本気で、この馬鹿兄をどうにかしてほしい。
そう思っても結局俺が悪いことに違いは無い。
どうしていいのか分からずに、結局俯いた。
『なら身をもって償え』
「ああ、出来ることならそうしてやる」
だけどもう金魚は生き返らない。
それなのに償うなんて、どうしろっていうんだ。
『よし金魚と連帯責任だからな』
「分かった」
分かったって何も出来やしない。
金魚の性癖さえ通常だったなら、あんなことにはならなかっただろうに。
ああ、なんかだんだん腹立ってきた。
「ねえ救命?何話してるの?」
「うるせえ黙れ変態。ってあ?」
俺は誰と話してたんだ。
「お父さん、お母さん」
金魚の間抜けな声に顔をあげて俺は絶句した。
目の前には金髪の父と赤髪の母がうっすらと見えていた。
俺は驚いて金魚を振り返ったが、金魚は黙って両親を見つめている。
「その美しい金髪、羨ましい限りだわ」
「そういう問題じゃねえ」
思わず気が抜けて怒りを越えてしまった。
それなのに父は目を細め優しそうにこちらを見て微笑んでいる。
いつもの笑顔だ。
俺たちを安心させるための温かい笑顔。
『ならお前にはこの金の髪と、呪いを授けよう』
口から出てきた言葉は意味が分からなかったが。
呪いってなんだよ。呪いって。
「なんで二人共そんな格好してんだよ」
うちの親は純日本人だったはずだ。
二人共若い頃に駆け落ちして、年齢はまだ三十五歳だった。
なのに今の風貌と言えば、父は金髪で、その隣で同じく微笑んでいる母は深い色の赤髪。
肌の色は生前よりも幾分か白く、彫りの深かった顔をより一層日本人離れにさせているし、外見も写真でしか見たことがなかった二十歳の若かりし頃の姿をしている。
考え込む俺に母さんは父さんと視線を交わし、にっこりと笑った。
この笑顔を見せられる時はろくなことがねえってことを、俺はこの身を持って知っている。
だから、嫌な予感はこの時しっかりしていた。
「私たち、天国なんか見たこともなかったから、無いと決め付けていろいろ常識に反したことをしてしまったらしいの。そしたら私たちのことを面白いと言ってくださって、神様が私たちを金魚とレスキューの神様にしてくれたのよ」
「は?」
ちょっと待て。
天国は信じてないのに神様は信じてたのかよ。
あんた仏教徒だろ。
天国じゃなくて極楽浄土じゃねえのか。
突っ込もうとしたが、次の瞬間、俺は思わず両腕で顔を覆った。
地面から轟々と突風が巻き上げてきたからだ。
「……っ!」
金魚が何かを叫んでいたが、聞き取ることも目を開けることが出来なかった。
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