桃花宴


 うらうらと暖かい午後、関弓の一角にある桃園を陽子は一人で歩いていた。遅い春を寿ぐかのようにひらひらと薄紅の花弁が舞う。その中を風情を楽しむ人々が大勢、思い思いに木の下をそぞろ歩いていた。最初は尚隆を探すという目的でこの桃園にやってきた陽子だったが、盛りを迎えた花の美しさに足の運びは徐々にゆっくりと楽しげなものになった。視線も人を探してきょろきょろするというよりも、自然と花を見上げがちになる。
 そんな陽子の耳に、聞き慣れた心地よい男の声が聞こえた。
「ほら、これが最後の分だ」
 見ると茶店の脇で尚隆――いや、風漢が腕まくりをして小柄な老婆にこき使われている。
「はい、ご苦労。そこに積んでおいとくれ。終わったら今度は甘酒運びだ。同じ倉庫に一山あったろう」
 偉丈夫がげんなりと顔を顰めた。
「まだあるのか」
「当たり前だ。今夜は桃花宴だからね。一年で一番の稼ぎ時さ。しっかり働いてもらおう」
「俺はそろそろ帰らねばならんのだが」
「構わんよ。なら、さっさと借金を払っておくれ」
「‥‥」
 ぐうの音も出ない大男に老婆はからからと笑う。
「そうだねぇ、あと十日も働いて貰おうか」
「それは暴利だ」
「おや、口答えすると利子を増やすよ」
「わかったわかった」
 肩を竦めて男は荷を取りに行くのだろう、やれやれと歩み去った。


 陽子はくすりと笑って少し離れた石案に腰を降ろした。予定より一日早く訪れた玄英宮で、陽子は尚隆の不在を告げられた。理由を訊くと数日前に関弓で遊んで賭けに大負けし、それをカタに働かされているのだという。反省を促すためにも暫く迎えに行ってはやらないのだと帷湍に教えられ、とりあえず場所を聞いて様子を見に来たのだが。
「あれは薬になるとは思えないけれど」
 陽子は口の中で呟いた。遠目に見る男は、ぶつぶつと文句を言いながらも楽しそうで、溌剌と荷運びに立ち働いている。
「あの男が気になりますかな」
 突然掛けられた声に陽子は驚いて目を上げた。痩せた老人が穏やかに笑っている。
「ここに座ってもいいですかな」
 向かいの空いた席を示した老人に、陽子は頷いた。
「ああ、はい、どうぞ」
 どっこらしょと腰を降ろして、老人は陽子と同じ方向を向いた。
「さっきからご覧になっておられるようだが、あの男が気になりますかな」
 老人が示しているのが明らかに尚隆であることに戸惑いながら、陽子は曖昧に頷いた。
「ええ、まあ」
「目立つ男ですわな。私は小僧のときにあの男に会いましたよ」
「え? 小僧?」
 問い返した陽子に老人は微笑んで頷いた。
「左様、ほんの小僧の頃でしたな。あの男、何者かは知りませんが、仙なのでしょう。夏官あたりの下っ端なのかもしれませんね。最初に会ったのはもう六十年も前なのに、今と大して変わってはおりませんでしたな」
「‥‥」
「本人も自分が歳を取らないことを意識しているのでしょう。何年かごとに関弓の中でも立ち回り先を変えているようです。でもこちらも動きますからね、七十年も生きていれば何度か会うこともありますよ」
「そうですか‥‥」
 陽子は穏やかな老人の横顔を見ながら、当り障りなく相槌を打った。
「あの男が来るようになると、その界隈が賑わうんです。別にあの男が何かをするというわけではないんですが、不思議と人を集めるものがあるんでしょうな。あの男のことは知らなくても、商売に聡い者なら皆、あの男を引き留めようと躍起になる。あの茶店のお婆のようにね」
「へぇ‥‥」
 言われてみれば、男のいる茶店は確かに周囲の他の店よりも客が多いようだ。文句を言いつつ働く男を、みんな笑って冷やかしながら財布の紐を緩めている。男もどこか楽しげに悪態を吐いては身軽に動いていた。
「いや、でも、昔のあの男よりもっと生き生きと楽しそうに見えますな。何かいいことでもあったのでしょうか」
 老人は自分もまた嬉しげに目を細めた。
「あの男がいるのなら、今年のここの桃花宴は盛り上がるでしょう。人生も終わりになって楽しい思い出ができそうです」


 老人がさて、と腰を上げたのを機に陽子も立ち上がった。そろそろ日が傾き始めている。いくら楽しそうでも、そろそろ潮時だろう。
「こんにちは」
 茶店の前で声を掛けると下を向いていた男が驚いたように顔を上げた。
「陽子。お前いつ関弓に」
「ついさっき。予定より仕事が早く片付いたので」
 嬉しそうに笑顔を見せる男に店の奥から主が声を掛ける。
「ほらほら、手が止まってるよ」
「なぁ、お婆。こうして恋人が迎えに来てくれたんだから、もう勘弁してくれまいか」
「駄目だね」
 言いながら出てきた老婆は、陽子を見て表情を変えた。
「おや、あんた、そんな格好をしているが、女の子だね」
「‥‥」
「隠しても無駄無駄。客商売して五十年のこのお婆の目は誤魔化せないよ。作ればかなりの別嬪だ」
「はぁ‥‥」
「よし、決めた。あんた、うちの店から今夜の桃媛の候補で出てくれ。そうしたらこの男の借金はなしにしてやる」
「はあ?」
「こら、お婆、こいつを巻き込むな」
「煩いね、あんたは黙ってな」
 ぴしゃりと男を黙らせて老婆は陽子に向かった。
「どうだい」
「あ、あの、桃媛って何ですか?」
「なんだい、桃媛を知らないのか。今夜の桃花宴ではこの桃園に出ている店がそれぞれ選りすぐりの別嬪を出すんだ。で、その中で一番綺麗な娘が桃媛になるのさ。桃媛を出した店はその一年、桃媛の店ってことで繁盛する。ここは小さな出店だが、わしらはみんな関弓の老舗の茶屋だからね。体面は大事だよ」
「それに私に出ろと?」
「ああ。予定していた娘があいにく顔に発疹の出る病気で寝込んじまっててね。今年は諦めていたんだが。あんた、出てくれるね」
「私、何もできませんし‥‥」
「ああ、何もしなくていい。ただ座って愛想笑いしてりゃいいのさ」
「愛想笑い‥‥」
 それが一番苦手なんだけどな、と小さく呟いた陽子を庇うように男が口を挟んだ。
「お婆、金ならなんとかするから」
「なんとかならんから働いておったんだろうに」
 男を睨めつけた老婆に、執り成すように陽子は言った。
「あ、あの、座っているだけでいいのなら、私、やります」
「陽子」
 驚いたように男が言った。
「そんな、お前のやるようなことではない」
 しかし陽子は笑顔で男を見上げた。
「私がそれをすれば帰れるのでしょう」
「そうと決まれば、ほら、支度支度。店番、頼んだよ」
 老婆は喜々として陽子の腕を取ると、気の変わらないうちにとさっさと店を後にした。


 着替え用の天幕の中で、陽子は頬を染めて座っていた。
「桃媛」という言葉からそれなりの華やかな装束は予想していたのだが、いざ着せられた衣装は、確かに美しく華やかではあったが、王宮で用意される豪奢な衣とは一味も二味も違っていた。結い上げた髪に付けられた飾りがさらさらと揺れる軽いものであったのは良かったのだが、問題は襦裙だった。扇情的な緋色の布地はどこまでもなよなよと柔らかく身体に纏わりついて、その輪郭をはっきりと見せる。大きく開いた胸元と襟足。肩から腕にかけてはあまりに薄い素材のために肌が透けて見えてしまっている。
「これはちょっと失敗だったかも‥‥」
 着付けと化粧をしてくれた少女が陽子の美しさに嬉しそうに目を輝かせている前で、陽子は心中呟いた。
「支度はできたかい」
 言いながら入ってきたお婆は一目見るなり満足そうに頷いた。
「こりゃあ驚いた。本当に別嬪だね。髪の色と衣がよく合ってる。ああ、髪飾りは緑の奴に変えとくれ。そっちの方が目の色と一緒だし、赤が引き立つだろう」
 少女が髪飾りを取り替えると、お婆はうんうんと何度も頷いて目を細めた。
「こりゃあ、最初に予定していた子よりいいね。ちょいと色気が足りないが、こういったすっきりしたのも目先が変わっていいかもしれない」
「あの‥‥」
「今更出ないなんてのは、なしだよ」
 陽子の気後れを見て取ってお婆は先を制した。
「でも‥‥」
「お披露目用の台に座って、杯を持ってきた奴に酒を注いでやればいいだけだから」
「え、お酌もするんですか?」
「ああ、言わなかったっけ」
 聞いていない、と陽子は口の中で呟き、そうは言えずに控えめに告げた。
「私、お酌なんてしたことないから‥‥」
「大丈夫大丈夫。美人に注いでもらうってだけでみんな幸せなんだから。自分が飲み過ぎないようにさえ気をつければ、返杯を受けてもいいよ。投票にも影響するから、なかなかいい酒を用意してあるんだ」
「私、あんまり飲めないんですけど‥‥」
「じゃあ最初から飲まない方がいいだろうね。一度飲んじまうと後が断りにくいだろうから。とにかく、客がそれぞれ一番気に入った娘に投票して、一番沢山票を集めた娘が今年の桃媛って訳さ」
「はあ」
「別に桃媛になれなくても文句は言わないからね。気楽にやっとくれ。さ、そろそろ行こうか」


 促されて天幕を出ると、空はもう暗くなっていたが、あちこちに灯された明かりが下から桃の花を照らして辺りは十分に明るかった。緊張気味の陽子が花の下を潜って連れられて行った先には赤い布を敷き詰めた低い台があり、背もたれのない椅子が一つ置かれていた。台の周囲には簡単な木の卓が設えられている。
 言われるままに椅子に座り周囲を見回すと、少し離れて同じような台がある。さらにその向こうにもまた一つ。どうやらあちこちに置かれた台に桃媛候補達が一人ずつ座る仕組みらしい。と、手前の台に艶やかに着飾った娘が座った。豊かな胸元を谷間まで曝した娘は、椅子に腰を降ろすと襟元を更に後ろに下げて大きくうなじを見せる。そして陽子の目から見ても、なんとも色っぽい仕草でさっそく酒の入っているらしい赤い容器を取り上げ、艶めかしい笑みを浮かべながら近くの客に振舞った。
 陽子が反対側を見ると、そちらの台でも既に若い娘が一人座っていて、周囲から差し出される杯に思わせぶりな手つきで酒を注いでいるところだった。その零れるような胸元とむっちりとした二の腕を見て、改めて自分の身体に視線を落とし、陽子は小さく苦笑した。
「これでは勝負にならないな」
 痩せている上に筋肉の付いた身体。どう転んでもあんな肉感的な色香は出しようがない。
 そうと分かれば却って気楽だった。桃媛に選ばれることを要求されているわけではないし、とりあえず酌をすればいいのだろう。それ以上お婆も無理は言うまい。
「お姐さん、注いでおくれ」
 折よくかかった声に、脇にあった酒器からはいはいと気楽に酒を注ぐ。他の娘を見る限りしなの一つもこしらえた方がいいのだろうが、あいにくそこまでする気にはなれなかった。ただただ言われるままに差し出された杯に酒を注ぐ。考えようによっては楽なものだ。
 ただ一つ困るのが、返杯だった。自分の杯で陽子にも酒を振舞おうとする人がいるのだ。客達は娘の品定めをするためにあちらこちらと台を巡るため、一箇所に長く居る者は少ない。陽子の近くの木の卓に居座る者もいないではなかったが、桃の花と祭りの風情を楽しむのが目的のようで、杯を向けられてもごめんなさいと断ればそれ以上無理強いされることはあまりなかった。
 が、それでも相手は酔客。しつこい男もたまにはいる。そんな一人が無理矢理に陽子に杯を押し付けようとした。
「私、飲めませんから。ごめんなさい」
 穏やかに言って陽子は別の客の差し出した杯に酒を注いだのだが、男は諦めない。
「お前、桃媛になるには色気が足りない。少し飲んだ方がいいぞ」
「桃媛にはならなくていいんです」
「折角別嬪なのに何を言う。ほれ飲め。それとも俺が色事を教えてやろうか」
「いいえ、遠慮しておきます」
 陽子は困りきっていた。酔客をあしらった経験など皆無だ。どうしていいか分からない。お婆に言われた通り一度杯を受けてしまえば他の客からの酒も断れなくなってしまうのは予想がついたから、どうしても飲むわけにはいかない。手刀を打ち込んでこの男を昏倒させるのは簡単だが、それをするのは尚まずいだろう。生真面目に答えてしまうからつけ上がられているようには思うのだが、といってどう返事をすればいいのか。
「ほれ」
 男が陽子の腕を掴んで無理矢理杯を持たせようとしたとき、当の男の口から悲鳴が漏れた。
「痛ぇっ」
 見れば尚隆が男の反対の腕を捻り上げていた。
「触るな」
 短く言って怒気を放つ偉丈夫に男は苦しい体勢のまま食ってかかった。
「何をしやがるっ」
「ほらほら、娘に手を触れるのはご法度だよ。知らないはずはないだろう」
 尚隆が男の腕を折る前にお婆が絶妙の間合いで割って入った。
「あんたもその手を放しておやり」
 尚隆は男の手を放したものの、不機嫌な顔のままお婆に言った。
「茶番は終わりだ。こいつは連れて帰る」
「何を言ってるんだい」
「ま、待って。しょ、風漢。」
 陽子は慌てて立ち上がり、尚隆の腕に取りすがった。
「私なら大丈夫だから」
「だが‥‥」
 見下ろした尚隆の視線に陽子は改めて自分のなりを思い出した。
「あ、あの‥‥」
 頬がかぁっと熱くなる。
 そんな陽子を見て、お婆は一つの提案をした。
「仕方がないね、そんなにこの娘が心配なら、あんたは店はいいからこっちで酒の支度をしてるってのはどうだい」
「陽子は嫌ではないのか」
 優しく尋ねる黒い瞳に、陽子は頬を染めつつ答えた。
「私は嫌じゃないから‥‥、もう少しこうしていてもいいかな‥‥」
「じゃあ決まりだね」
 話を纏めて立ち去り際、お婆は誰にともなく呟いた。
「色気が足りないと思ったが、風漢といると恥じらいが出ていい具合だね。これはもしかすると‥‥」


 それからは尚隆が睨みを効かせていたおかげで陽子はそれ以上嫌な思いをすることもなく、花見客は大人しく花と美姫を楽しんだ。立ち働いている尚隆をからかう者は絶えなかったが、そうした客には尚隆も激することなく飄々と答えていた。そんな尚隆を目で追いながら、そして時折尚隆と視線を交わしながら、陽子は凛と背を伸ばし明るい笑みを浮かべて差し出された杯に酒を満たし続けた。
 幾つ目かの杯にこれまでと同じように酒を注いだ陽子は、ふとそれが先程店の前で会った老人が差し出しているものであることに気付いた。
「あなたは‥‥」
「おや、先程の‥‥。これはこれは」
 老人は嬉しそうに笑顔を見せた。
「ああ、それで」
 一人納得したように頷く老人に陽子は首を傾げた。
「何か」
「先程あちらから見ていたのです。あの男があれ程感情を表したところ、まして誰かに執着を見せたところを初めて見ましてね、珍しいこともあるものだと思っていました。あなただったのですね」
「‥‥」
「今夜の桃媛はきっとあなたでしょう。先にお祝いを言わせてください。おめでとう」
「え、でも‥‥」
「回りを御覧なさい」
 言われて見回せば、陽子の前の卓はどれも楽しげな人でいっぱいになっていた。桃園全体の賑わいから見ても、この一角の賑わいは群を抜いている。
「あなたもあの男と同じですね。不思議と人を惹きつける」
「そんな‥‥」
「今夜は楽しませていただきました。ありがとう」
 老人が美味しそうに杯を干して立ち去ってすぐに、からんからんと鉦の音が響き渡った。同時に男の声が投票の締め切りを告げる。
 ざわつく中で、陽子の肩にふわりと上着が掛けられた。
「あ、ありがとう」
 礼を言って立ち上がった陽子を尚隆は促した。
「行こう」
「あ、はい。お婆さんに断らなくていいかな」
「桃媛候補の仕事はもう終わりだ。いなくなっても文句は言わんだろう」
「ん、そうかな」
 促されるまま陽子は着替えをした天幕に向かって歩き出した。戻れば多分いつもの袍が置いてあるだろう。刀は見ているように使令に頼んであるから心配はない。
「疲れたろう」
 優しく問う男にそっともたれかかるようにして陽子はゆっくりと歩く。
「少し。お酌なんて慣れてなくて」
「悪かったな、面倒に巻き込んで」
「ううん、楽しかったから」
「‥‥」
「あの、さっき会ったお爺さんも同じようなことを言っていたのだけれど、桃李成蹊って言葉を浩瀚に聞いたことがあって。それだなと思ったんです」
 男は首を傾げた。
「何がだ」
「あなたの周り。何時の間にか人が集まって、みんな楽しそうで。私もその中に入れてもらえて、嬉しかった」
「それはお前の周りだろう」
「え? 私の?」
 不思議そうに目を見開いた陽子に、尚隆は分かっていないなと溜め息を吐いた。
「こんな風にね」
 陽子は言葉を続ける。
「王様がどこかにいることなんか誰も意識していなくて、でも安心していられて。自分たちの暮らしをちゃんと楽しんで。こういうのって、いいなって」
「陽子が楽しかったのならいいが」
「うん、楽しかった。尚隆も楽しかったでしょう。‥‥薬にならないから帷湍さんには悪いけれど」
「何だ、その薬って」
 尚隆の問いに小さく笑って陽子は答える。
「お金が返せなくて王宮に戻れなければ、尚隆が少しは反省するかもしれないって、帷湍さんが言っていたんです。でもこんなに楽しそうでは反省なんて出来ませんよね」
「いや、十分反省した。もう無茶な賭け事はせん」
 きっぱりと言い切った尚隆を不思議そうに陽子は見上げた。
「?」
「こんな陽子を他の男に見せる羽目になるなど、不覚もいいところだ。俺は心底後悔したぞ」
 さらに尚隆が何か言おうとした時、後ろから声がかかった。
「あ、いたいた」
 二人が振り向くと、お婆が息せき切って走ってくるところだった。
「あんた、どこ行くんだい、桃媛が。早く来ておくれ、みんな待ってるよ」
「え?」
 怪訝そうに立ち止まった陽子の脇で尚隆はやれやれと肩を竦めた。
「あるいはと思っていたが、やはりそうか」
「何が」
「あんたが桃媛に選ばれたんだよ。ほら、早くおいで」
「でも‥‥」
「ほらほらこんな無粋なもん着ていないで」
 お婆は陽子の羽織っていた上着をさっと剥ぎ取るとぽいと尚隆に投げて寄越した。
「選ばれる前にさっさと連れて逃げようって魂胆だったのかい。まったく油断も隙もないんだから。あと少しだから我慢しな」
 苦笑いする尚隆を残し、お婆は陽子の手を引いて桃園の中央に向かう。
 明るく照らし出された中に浮かび上がるほっそりとした姿勢のよい立ち姿を見て、尚隆は溜め息を一つ吐いたが、それでも困ったように碧の瞳が周囲を見回すのを見て、ゆっくりと人の輪の中に入って行った。
 その夜、桃園では賑やかな笑い声がいつまでも続いていたという。


(了)




 RIKOさんのサイト「桃李成蹊」のサイト開設祝い(実際は一万打祝いになっちゃったけど/汗)で、お題はサイト名の「桃李成蹊」とさせていただきました。
 RIKOさんのサイトは、「何故尚隆が五百年も孤独だったのか」がテーマの一つになっているので、私なりの考えを織り込んでみました。

 小説だけでうまく表現できたとは思えないので解説すると、尚隆は陽子に出会うまで、自分が孤独だとは思っていなかったと私は思います。
 彼は公人としてしか自分の在り様を知らなかったので、「民が楽しそうにしているのを見る」だけで十分だと思っていた、と。気に入った娘はいたかもしれませんが、后妃にしてしまったら「民」ではなくなってしまうので、それでは意味がないでしょう。
 そんな中で、陽子だけは最初から「民」ではなく「王」でした。どんなに若輩でも王としての自分と対等の存在なわけです。
 尚隆は陽子に会って初めて自分の孤独と、それを埋める存在を知ったのだと思います。だから五百年も生きてきて自分の感情に戸惑ったり、悩んだりする、と。(うわぁ、ドリーム見てますねぇ。)

 小説では「民の中にいる尚隆」と「その尚隆にとって特別な陽子」の対比を書いてみたいと思ったのですが‥‥。玉砕かな?

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